2022/01/07号掲載
国際貢献よもやま話 『ルワンダ難民救援編』vol.1
この紙面をお借りして私の国際災害医療支援時の体験談(感動したり、失敗したり、怖い話)をこれから取り上げてお話をしたいと思います。
我が国が本格的に国際的な医療活動を手がけ始めたのは湾岸戦争後の94年のルワンダ難民救援からはじまりました。
ルワンダ共和国は、中央アフリカに位置し、アフリカのスイスと言われるくらいアフリカでも涼しいところです。
当時、日本でも話題を集めたルワンダ難民事件が起きたのは1994年4月6日。
ルワンダキガリ空港に着陸態勢に入ったルワンダ大統領専用機が対空ミサイルで追撃され、ハビヤリマナ大統領が死亡するという事件を発端に、それまで停戦状態にあったルワンダ内戦の炎が燃え上がったのです。
前日まで仲良く談笑していた人たちが、斧、ナタ、ナイフなどで殺し合い、人口750万人のうち50万人が惨殺され、人口の4分の1に当たる200万人が重い荷物を持ち、子供の手を引いて何百キロも歩いてタンザニア・ザイール(現在のコンゴ)などの隣国に逃げ込み難民となったのです。
難民キャンプでは、悪いことにコレラ、赤痢などの伝染病などが流行り、1日2,000人~3,000人の死体が道路わきに累々と並ぶ事態となり薬剤師として災害医療派遣となりました。
さて、ここでの体験のお話しをしましょう。派遣されたキブンバ難民キャンプの現地のワーカーと良好な関係で支援が進んでましたが、たったランチの事で信頼関係がなくなってしまったのです。
それも30人分の揚げパン、バナナ、コーヒー金額にして800円程度、彼らは食事を毎日食べれません。
そこで我々がお得意とする日本人の「おもてなし」を提供して良好な関係を築いてました。
しかし途中から同じメンバーのアメリカ人女史が口出しし、契約に昼ごはんも入っているからと提供中止(アメリカの契約重点主義)一方的に今まで彼らが2ケ月間楽しみにしていたランチが無くなくなってしまいました。
これで現地の人達と信頼関係が崩壊、お昼になると現地のメンバーから「腹へったァ」の大合唱がはじまりました、この問題は最悪なピックアップトラックハイジャック事件に突入し、日本人メンバーは恐怖のため震え上がる状況になってしまったのです。
この張本人のアメリカ人女史は敵前逃亡で母国に逃げるように帰国してしまいました。私は海外では食べることの重要性がこのミッションで分かりました。
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